19.キャンパス辞書事情
   「辞書は知識の宝庫です」
       

(1)この記事はASAHI WEEKLY (March/25/2007)に表題の下に掲載されたインタビュー記事の転載です。
(2)本記事には、「生徒」という語が12回、「学生」という語が1回出てきますが、大学では「学生」は正式には「生徒」とは呼称しません。また、私(山岸)はインタビューの中で、習慣的・意識的に、一貫して「学生」を使用しましたが、記事になったのを見ると、ご覧のように、「学生」が「生徒」と変更されていました。転載承諾条件の中に、「文章及び図形は改変しないでください」という一条がありますので、そのまま転載しますが、いずれの「生徒」も「学生」と読み替えてください。

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 40年以上の教員経験がある明海大学教授の山岸勝榮(62)さんには「これは恐ろしいな」と感じた瞬間があるという。「辞書持ち込み可」とされた、ある試験に立ちあった際、70人中、紙の辞書を使っているのがたったの2人だと気がついた時だ。
 「まさにここ数年で大きく変わりました。紙の辞書はそのうち見なくなるのではないか…」と山岸さんは危機感を募らせる。
 教育現場で電子辞書の台頭が急速に進んでいる。これは紛れもない現実だ。山岸さんが自らの生徒を対象に行った調査では、402人中、電子辞書をもっていたのが370人。つまり、92%の生徒は電子辞書を使っていることになる。軽量化、小型化が進み便利である以上、1つの辞書の中にたくさんのコンテンツが入っている。一括検索ができて、例文も捜せる…。その理由をあげればきりがない。
 「電子辞書はカーナビのようなもの。少なくとも迷わずに、効率的に英語の世界に入っていける」。その一方で、学習の場で、はたして便利さだけを追求していっていいのか…とも感じているという。
 今、教育現場では何が起こっているのか? ここで山岸さんは1例を上げて、電子辞書の抱える問題点を指摘した。今年2月に行った試験で次のような問題を出したという。「魚を甘辛く煮る」 これを訳しなさい。学生はどう答えたか? 電子辞書をピピッと押して「甘辛い」をひく。そうするとそこには「肉を甘辛く煮る」という例文がboil meat sweet and saltyと載っている。そして、このmeat(肉)の部分をfish(魚)に置き換えるのだ。出てきた答えは、boil fish sweet and salty。
 「100%の生徒がこう回答しました。でも日本人は魚を煮るときに塩を使うでしょうか? しょうゆでしょう。この例文は日本文化を正しく伝えていないわけです」。
 現在の電子辞書には、どの機種にも同じコンテンツが入っている場合が多い。紙の辞書と違って選択肢がないと言うわけだ。一つの間違いが大きく波及してしまう。90%を超える生徒が電子辞書を使っている現状では、その影響力は絶大だ。
 加えて、山岸さんが、もう1つ強く感じているのは、生徒が辞書の使い方を知らないということだ。事例は次々と出てくる。まず、辞書に示されているC(カウンタブル)、U(アンカウンタブル)の意味が分からない。beyond one's abilityを使った例文を作れ(辞書可)というと、It's beyond one's ability.と書いてしまう。また、comfortableという単語を「コンフォテーブル」と発音する。辞書をひかせて、読んでごらんというと返ってきた答えは「発音記号は習ったことがない。読めません」。辞書の約束ごとを理解していないのだ。
 「辞書指導をほとんど受けていないわけです。教科書の巻末に単語リストがあるので必要ない。結局、受験などのからみで辞書は邪魔者扱いされてしまう。とりあえず通じればいいから、書けば点数がもらえるから辞書なんていらない。でる単、でる熟をしっかり暗記しろとなってしまうのです」。
 山岸さんは、大学で辞書をテーマにした授業を積極的に行っている。今学期は、生徒に自分の興味のあることを題材に辞書を作らせた。犬が好きな生徒は、「犬に関する用語の小事典」といった感じ。その中には雑種犬(mongrel)、じゃれる(frisky)などが例文と共に載っており、巻末には、「飼い犬に付ける名前ベスト10」まである。ちなみに1位はMaxだそうだ。調べる過程で辞書を活用し、同時にその構成も理解できる。また、漫画好きな生徒は、漫画に出てくる擬音、擬態語をまとめた。どったんばったん(THUMP SLAM)。ぎろっ(Grrr!)といった具合だ。こういった言葉は、一般の辞書に載っていないものも多い。そこで生徒は気づく。「辞書にも限界があるんだ!」こういった授業を取り入れる目的は「辞書に興味を持たせること」だ。
 
辞書はこんなに面白い!
 
「辞書は、知識の宝庫だということを一部だけでも体験して欲しい。少なくとも辞書は、ひいて意味をさぐるというそんな単純なものではないわけです。日英比較も分かれば、類語も、英語文化も分かる。それを知らずに持っていても宝の持ち腐れになってしまいます」。
 山岸さんは、生徒はこれまでの暗記英語で英語に拒否感を持っているという。「彼らは大学に入ったら英語は勉強しない。なぜか? もう疲れた。面白くない。苦しんだからですよね。英語に残っているのは、恨みなんです。ですから、私が辞書の話をすると、本当に面白がります。目が輝き出すんです」。
 確かに、山岸さんの授業を受けた生徒の感想には「辞書がこんなに面白いものだとは知りませんでした」「辞書は高い物だと思っていましたが、今は1万円でも安いと思えるようになりました」などの言葉が並ぶ。
 紙の辞書にも、電子辞書にもそれぞれの長所、短所がある。それをきちんと理解して使い分けて欲しいというのが、山岸さんの願いだ。
 「生徒たちは、必要な語彙(い)さえわかれば、そこで読むのをやめてしまう。これが問題なんです。辞書は読まないとダメなんだよと言い聞かせています」。
 「辞書指導は生涯学習」。これが、山岸さんの考え方だ。今、英語が好きではなくても、将来辞書が必要となる可能性がある。その時にさあ、大変!とならないように、その使い方をあらかじめ教えておいてあげる。それが教育だという思いからだ。
 自らも辞書の編集に携わっている山岸さんは、紙の辞書をこよなく愛するひとりだ。良い辞書とは?との問いには「英語文化とは何?」ということがきちんと説明されているものと答えた。
 ここでさらに山岸さんから問題提起。日本文化から生まれた「明日は明日の風が吹く」と英語の“Tomorrow is another day.”は、本当に置き換え可能なのか?
 山岸さんいわく、「明日は〜」は何とかなるさ!というちょっと投げやりな感じ。そして、“Tomorrow”は、とても前向きな気持ちを表している。
 「“Tomorrow is another day.”は、映画『風と共に去りぬ』の最後に出てくるセリフです。そこには、明日は別の明るい未来が開ける日なんだという思いがこもっています。なんとかなるさ!といったら投げやりになってしまう。やはり、意味が違う」。
 編集者としては、こういう文化の違いまで正しく伝えられる辞書作りを目指していきたいと話す。